10年前父がベルギーで個展をやることが決まり、その時にお世話になった家族の奥さんが日本にやって来た。

新横浜から出てきた彼女から懐かしい香りがして、五感の鋭さに自分のことなのに関心してしまった。真横で見て聞いていても口では決して真似のできない早口のフランス語を聞きながら日本であるのにもかかわらず、ここでもまた取り残されたように感じてしまう。言語というものが持つパワーに私はいつもいつも負けてきたように思う。

前の恋人は半分日本語、半分英語を話す人で彼は私に英語の楽しさを教えてくれた。それからずっと今日まで勉強してきた。でもまぁ日本でちょろちょろっと半年やったような英語が、伝わるはずもなかったし(相手のイマジネーションがあってこその会話だった)褒められたものでもない発音や、語彙の少なさに私はまた自信をなくすのだった。けどそれは逆にここで終わらないことも意味するんだけど。

今日、彼女と一緒に鎌倉に行った。大仏をみて、長谷から由比ヶ浜へ。母と彼女と姉と姪と来る海は、いつもサーフィンするアクティブな場所じゃないみたいだった。なんか、なんだろう、一緒にいる人が違うだけで景色はこんなに変わるのかって。こんなにも暖かくて、守りたくなるものに。

夜に恋人から電話があり「長谷にとってもいい物件があった。海の目の前なの」と伝えるとそれって最高じゃん、と賛同してくれた。嬉しかった。来年の8月に空きがでるといいなって、そう思う。そこで彼と暮らしたらどんなに素敵かってそんなことばかり考えている。

いつか私がまた彼女に会った時、いまよりももっと深い言葉と言葉のつながりで分かり合えたらいい。「今日がいい日だった」ってそれだけでも、もっとたくさんの言葉で彼女に伝えられたいい。明日は早起きしてお見送りをする。いつか彼女も日本の海の香りを思い出して、今日の日に想いを馳せてくれるのだろうか。